羽生結弦|家族を紹介!母や兄弟との絆がすごい!羽生家の教育方針も!
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国民栄誉賞を受賞した際、記念品を辞退するなど、謙虚な姿勢が印象的な羽生結弦選手。
羽生結弦選手を育ったご家族や家庭環境はどのようなものだったのでしょうか。
今回は、羽生結弦選手の家族や出身についてご紹介いたします。
羽生結弦の家族構成
羽生結弦選手は、両親と姉の4人家族で育ちました。
羽生家は家族4人とも血液型が違うためか、性格はみんなバラバラで個性的なのだそうです。
普段のやりとりでは、気の強い羽生結弦選手と、母親の間で他愛のない口ゲンカが始まり、真面目な姉が仲裁に入り、父親はどのようにこの状況を収めようかと冷静に様子を見ている、というパターンが多いのだとか。
性格の違う家族だけれどもお互いを認め合い、バラバラなようで話はまとまりやすく、とてもバランスのよい一家なのだそうですよ。
久々に実家に帰ると、父親も姉も羽生結弦選手をまるで小さな子供のように可愛がってくれるそうです。
スケートの話はあまりせず、テレビの話題で盛り上がったり、ゲームを楽しんだり、時々口ゲンカをするなど、実家は羽生結弦選手にとって、『素に戻れる場所』なのだとか。
とても温かい家庭で育ったのですね。
大きな壁にぶつかった時には、実家で連日夜遅くまで家族と話し合うなど、人前では決して弱味を見せない羽生結弦選手にとって家族は心から信頼できる存在のようです。
羽生結弦の出身
羽生結弦選手は、宮城県仙台市泉区で生まれ育ちました。
ネット上の情報によると実家は、仙台駅から車で20分ほどのところにある県営住宅だそうです。
後ほどご紹介しますが、父親の職業は公務員なので、主に生活困難者が入居の対象となる県営住宅に住まわれているというのは、少し違和感があります。
もしかすると、県が公務員である職員のために用意する「職員住宅」を指しているのかもしれませんね。
羽生結弦選手が2013年のソチオリンピックで金メダルを獲得後、自宅に取材が殺到したため、2014年10月頃に羽生家は仙台市内のマンションに引っ越したようですよ。
羽生結弦の本名
芸名のように印象的な羽生結弦選手の名前は本名です。
「羽生」という苗字の方は全国におよそ9,700人いて、西日本や鹿児島県に多いようです。
「結弦」という素敵な名前を付けたのは父親のようで、『弓に結ばれた弦のように凛として生きてほしい』という願いが込められているそうですよ。
まさに父親の願い通りに成長されていますよね…!
羽生家の教育方針
羽生結弦選手の両親は、息子が金メダルを獲得するなど、どれだけ話題になっても、「頑張っているのは本人であって、親は関係ない」という考えから、表に出てくることはないそうです。
控え目で多くを語らない、まさに東北人の気質を持ったご両親なのだとか。
このようなご両親のもとで育つと、あれだけ謙虚なお子さんに育つのですね…!
羽生家の教育方針は、子供の『自主性』を尊重することだそうです。
「羽生家の場合、あるときは密接で、あるときは突き放すという教育をされていた気がします。
子供にやらせるのではなく、子供が関心を持ったことに、可能な限り協力する。」
gendai.ismedia.jp
また、両親は羽生結弦選手がスケートだけの人間にならないよう、口を酸っぱくして言い聞かせてきたからか、東北高校時代の羽生結弦選手は、勉強もスケートもきちんと両立していたのだとか。
特に父親からは『フィギュアだけでなく、勉強もしなければダメだ』と常日頃言われ、遠征先にも教科書や参考書を持ち込んで勉強していたそうですよ。
とてもしっかりしたご両親ですよね…!
ちなみに、羽生結弦選手は、中学生のころから成績がよく、特に理数系が得意だったようです。
羽生結弦選手は、このような方針で育ててくれた両親にとても感謝しているのだとか。
羽生結弦の父親
ネット上の情報によると、羽生結弦選手の父親の名前は「羽生秀利」というようです。
こちらは父親の写真です。
羽生結弦選手は父親について次のように話しています。
「常に決まったところに「どーん」と構えている、そんな重みのある存在です。精神的な柱のように家族を支えてくれています。昔はよく怒られたけど、今は見守って冷静にアドバイスしてくれます。」
羽生結弦選手は父親に対して、揺るぎない信頼を寄せているようですね。
羽生結弦の父親の職業は教師で校長!
先ほども少しご紹介しましたが、羽生結弦選手の父親は宮城県内の公立学校で教師を務めているようです。
羽生結弦選手は理数科目が得意だったとのことですが、これは父親が数学の教師だったことが影響しているのかもしれませんね。
現在は、教頭を務めているとのことですが、教頭といえば民間企業でいう部長クラス。
生徒や周りの先生からも信頼がなければ、辿り着けないポジションですよね。
羽生結弦がフィギュアを選んだきっかけ
野球部の顧問を担当していたという父親の影響から、羽生結弦選手も幼少期からボール遊びが大好きな少年だったそうです。
しかし、2歳の頃から持病の「喘息」を患っていた羽生結弦選手は、少し走ると急に咳き込んだり、夜も眠れないほど咳が続く日もあったのだとか。
そんな中、心配した両親は、スケート教室に通っていた姉の影響から4歳の頃にスケートを始めることに。
スケートは、ホコリを吸い込む可能性が低い屋内でのスポーツであるため、喘息を治すことが目的でもあったようですよ。
小学校2年生の頃、喘息の症状が改善に向かっていた羽生結弦選手は、先生が怖くて練習量も多かったため、スケートの練習が嫌になり、野球をしたいと思った時期があったそうです。
本当は息子に野球をやらせたかった父親は、『野球のほうがおカネもかからないし、スケートが嫌なら辞めてもいいんだぞ』と羽生結弦選手に提案したそうです。
悩んだ末に羽生結弦選手が選んだのは、スケートでした。
「そう言われるとやっぱりスケートは手放しがたい。表面では『きらい』と言っても心の奥底では好きだったのかな。」
www.asahi.com
父親の問いかけは、その後羽生結弦選手が高い意識を持ってスケートに取り組むための、良いきっかけになったのかもしれませんね。
それ以来、父親は決してスケートに対しては、口を出さず、一歩下がって、『おっ、頑張っているな』と声をかけて、見守っていたそうですよ。
思わず「あぁしろ、こうしろ」などと言ってしまいそうなものですが、黙って見守っていたのは、息子さんを信頼していたからなのでしょうね。
羽生結弦の母親
羽生結弦選手の母親の名前は「羽生由美」というそうです。
こちらは、母親の写真ですがとてもそっくりです。
ネット上の情報によると、母親は専業主婦で、デパートの紳士服売り場やクリーニング店でパートをしていたのだとか。
羽生結弦選手の父方の家系は運動が得意ではないといい、羽生結弦選手の運動神経や手足の長いスラリとした体型は母親譲りなのだそうですよ。
母親とは一番長く一緒に時を過ごし、良いことも悪いことも、素直に口に出してしまうそうです。
心配をかけてしまうからと黙っておいたことも、母親にはわかってしまうようですよ。
母親は、羽生結弦選手を「自分の身体の一部だから」と、何よりも自分を一番に心配してくれるそうです。
羽生結弦選手にとって母親は、『そばにいてくれるだけで十分な存在』なのだとか。
本当に素晴らしい親子関係ですよね…!
羽生結弦・母親の献身的なサポート
羽生結弦選手が数々の成果を出してきた裏側には、母親の献身的なサポートがありました。
いくつかのエピソードをご紹介しますね。
衣装を手作り
フィギュアスケートを子供に習わせるご家庭といえば、とても裕福なイメージがありますよね。
靴や衣装、リンク代など、とても費用のかかるスポーツです。
しかし羽生家は、父親が公務員の家庭で、家賃5万円でつつましく暮らしていました。
母親は節約のために2012年まで、大会で着用する衣装を自作していたそうですよ。
きっととんでもない作業量だったでしょうね…。
震災後の行動
2011年3月に起こった東日本大震災では、羽生結弦選手の地元も大きな被害を受けました。
リンクの氷は割れ、羽生結弦選手の自宅も半壊状態となり、家族は4日間の避難所生活を強いられたそうです。
羽生結弦選手は、「こんな状況でスケートをやっていていいのか」と悩んでいました。
そんな中、母親は羽生結弦選手が練習を再開できるよう、スケート連盟やコーチに片っ端から頭を下げて回ってくれたのだとか。
その様子を見ていた羽生結弦選手は、『僕は自分のためだけに滑ってるんじゃない』と、前に進めたそうですよ。
その後のソチ五輪での金メダルなど、羽生結弦選手の数々の受賞に励まされた方がどれだけいたのでしょうか。
カナダ生活に同行
2011年に四大陸選手権で銀メダルを獲得し、史上最年少のメダリストとなった羽生結弦選手は、高校3年生の2012年5月、さらなるレベルアップを目指してカナダのトロントに母親と二人で移住しました。
羽生結弦選手は、言葉の壁や生活環境、特に肉料理が中心のカナダでの食生活に最初は苦労していたそうです。
食の細い羽生結弦選手は、外食で胃がもたれることもあったそうですが、母親が消化の良い鍋を作るなど、健康管理に相当気を遣っていたのだとか。
食材を探して和食を作ってくれたり、練習に専念できるように、サポートしてくれたそうです。
異国の地に同行してくれる母親の存在は、本当に心強かったでしょうね。
羽生結弦の兄弟(姉)
羽生結弦選手の姉の名前は、「羽生さや」といいます。
年齢は4歳年上とのことなので、1990年生まれということですね。
羽生結弦選手は、姉について次のように話しています。
「姉は優しさと愛情があって、いつも僕の立場になって一緒に考えてくれます。姉だからこそ、父や母とは違った視点で理解してくれることもあるし。
子供同士として、父や母に対する気持ちもわかり合えます。僕と姉の関係は、4歳の頃と基本的には変わらない。今でも甘えさせてくれる『お姉ちゃん』です。」
羽生結弦選手も姉も、母親似の切れ長で涼しい瞳で、笑い方もソックリだそうですよ。
性格もよく似ていて、いつも冷静で、集中力が高く、決めたことをやり遂げる自己コントロール能力が強くい方なのだとか。
羽生結弦選手の兄弟(姉)の職業
羽生結弦選手の姉は現在、仙台市にある「アイスリンク仙台」の職員として働いているようです。
「アイスリンク仙台」は、羽生結弦選手が17歳まで通っていた、ファンにとっての「聖地」として有名です。
震災で被害を受けたこのリンクに、羽生結弦選手は著書2冊の印税の全額や祝賀パレードの剰余金の全額を寄付しているそうです。
結弦くんが、本当に立派すぎますね…泣。
羽生結弦がフィギュアを始めたきっかけ
羽生結弦選手は4歳の時にフィギュアスケートを始めましたが、これは先にフィギュアスケートを習っていた姉の影響だそうです。
こちらは、幼少期のお姉さんとのお写真ですが色白でとてもよく似ていますね。
羽生結弦選手は、『お姉ちゃんができるなら僕にだってできる』と、ジャンプやスピンに挑戦するなど、姉に追いつきたい一心で練習に打ち込んでいたそうです。
姉も弟に負けないようにと、『良きライバル』的な関係だったのだとか。
しかし、経済的な事情で、兄弟2人にフィギュアスケートを続けさせることは難しく、幼少期から将来有望だった羽生結弦選手に夢を託し、姉は高校生の時点で辞めてしまったようです。
お姉さんもダブルアクセルを飛べるほどの実力者だったようですよ。
その後は、羽生結弦選手のスケートの技術面についてアドバイスするなど、陰でサポートしてきたようです。
羽生結弦選手が並々ならぬ実力を発揮してこれたのは、お姉さんの想いを受け継いでいることも理由の一つなのかもしれませんね。
今回は、羽生結弦選手の家族についてご紹介しました。参考になることがあれば、幸いです。