東幹久|実家は松涛でお金持ち?若い頃は渋谷のチーマーだった!
1988年にデビューして以来、俳優やタレントとして安定感のある活動を続ける東幹久さん。
今回は、東幹久さんの実家や家族、チーマーだった過去についてご紹介いたします。
東幹久の家族構成
東幹久さんは、両親と姉の4人家族で育ちました。
姉は、8歳年上とのことなので、1961年頃の生まれということですね。
東幹久さんの兄弟は、Take2の東MAXこと東貴博さんではという噂も流れていますが、単に苗字が同じだけで血縁関係はありません。
母親と姉については、情報が見当たらなかったのですが、父親について少しだけご紹介しますね。
東幹久の父親
東幹久さんの父親はコメディアンや歌手として活躍していた東八郎さんでは、という噂が流れていますが、こちらも単に苗字が同じだけです。
東八郎さんは、東貴博さんの父親ですね。
東幹久さんは子供の頃に父親から競馬を教わったことがきっかけで競馬が大好きになりました。
子供の頃は、父親が競馬で勝つと家族で外食をしていたようです。
2017年1月からは『BSイレブン競馬中継SUNDAY』のMCを務めていますね。
競馬界のレジェンド・武豊騎手とも親交があるそうですよ。
小さなころは父親と遊びに出かけたり、伊豆に家族旅行に行くなど仲の良い親子だったようです。
そんな東幹久さんの父親は、東幹久さんが19歳の時に他界しています。
東幹久さんの宝物は、父親の日記だそうです。
その日記には、東幹久さんの出演作への厳しい寸評が書かれていて、今でもそれを読んで戒めにしているのだとか。
父親とはまだまだいろんな話をしたかったでしょうね。
東幹久の実家はお金持ち?
東幹久さんは東京・渋谷生まれの渋谷育ちです。
東幹久の小学校時代
小学校時代は、渋谷区立渋谷小学校に通っていました。
こちらは1997年に廃校となったようです。
幼稚園や小学校時代の友達とは今でも付き合いがあるようですよ。
小学校時代は、ゲームセンターやビリヤード場に通っていたのだとか。
まさに都会っ子という感じですよね。
小学校時代は、円山町のラブホテル街が通学路だったそうなので、実家は京王井の頭線・神泉駅が最寄駅なのかもしれませんね。
東幹久さんは代官山駅近くのとんかつ屋『ぽん太』に子供の頃から通っていて、今でも行きつけのお店だそうです。
ちなみに、東幹久さんの幼少期の習いごとは、習字、英語、公文式だったようです。
東幹久の中学時代
中学時代は、渋谷区立松涛中学校に通っていました。
「松涛」といえば、日本屈指の高級住宅街として有名ですよね。
政治家や実業家、作家、芸能人など多くの著名人が暮らすエリアです。
東幹久さんもお金持ちなのではという噂が流れていますが、本人曰く実家は「一般家庭」だったようですよ。
中学時代は、13歳の時に1歳年上の不良の転校生の女の子に誘われて、スーツを着て初デートをしたそうです。
実家近くの松濤公園で相手からリードされて初キスをした想い出があるようですよ。
東幹久の高校・チーマー時代
東幹久さんの高校時代は、「渋谷にいるかっこいい高校生」として評判で、行きつけのビリヤード場で出待ちする女の子が大勢いたのだとか。
16歳の時に1年間交際していた1歳年上の女性は、初めて真剣交際をした相手だったそうです。
毎週水曜日に渋谷にある神社で待ち合わせをしてデートしていたようです。
また、東幹久さんは高校時代、都心部の不良である「チーマー」でした。
時々暴走族とケンカしたこともあり、蹴りが得意だったたことから『旋風脚の幹久』と呼ばれていたそうです…!
しかし、チームの中では身体が大きい割に喧嘩が弱く、下っ端だったのだとか。
ちなみに、東幹久さんが所属していたのは、渋谷の武闘派チーマーの先駆けで1980代後半に結成された『宇田川警備隊』に所属していました。
当時の渋谷には複数のチームがありましたが、『宇田川警備隊』は渋谷センター街を縄張りとした最大派閥だったようです。
1990年前後には『宇田川警備隊』を中心にチーマーがしだいに凶暴化していき、渋谷センター街は日本一の危険地帯と化し、社会問題に発展していきました。
しかし、東幹久さんは大事になる前の1988年にチーマーを辞めて芸能界に進出したため、これといった武勇伝はないようです。
現在年齢を重ねた東幹久さんは、渋谷のセンター街にいる若者が怖くなってきたのだか。
時が経つと人は変わるのですね~。
今回は、東幹久さんの実家や家族、チーマー時代についてご紹介しました。参考になることがあれば、幸いです。