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2020-05-04
最終更新日:2020/05/20

高嶋ちさ子|父親の職業や会社は?ビートルズ仕掛け人で先祖がすごい! 

バイオリニストとしてだけではなく、饒舌なトークでバラエティ番組でも大活躍の高嶋ちさ子さん。

今回は、高嶋ちさ子さんの父親についてご紹介いたします。

高嶋ちさ子の父親の出身・家族・学歴

高嶋ちさ子さんの父親の名前は、高嶋弘之といい、1934年に兵庫県神戸市東灘区御影町に生まれました。

「御影」といえば、阪神間屈指の高級住宅街の一つとして有名ですよね。

高嶋ちさ子さんの曾祖父は大地主で不動産収入があったそうで、祖父は琵琶師匠を自称し、生涯定職につかず有閑階級の家庭だったそうですよ。

先祖には、北海道の郷土料理である「三平汁」の開発者とされる松前藩の斉藤三平がいるそうです。

高嶋ちさ子さんの父親の実家は恐らく大豪邸だったかと思われますが、1995年の阪神・淡路大震災により全壊してしまったようです。

高嶋ちさ子さんの父親は、姉妹兄のいる4人兄弟の次男として生まれ、長男は俳優の高島忠夫さんです。

高嶋ちさ子さんの父親は、兵庫県立神戸高等学校を卒業し、早稲田大学文学部卒業しています。とても優秀な方なのですね。

高嶋ちさ子の父親の職業・会社

高嶋ちさ子さんの父親は大学を卒業後、1959年に東京芝浦電気株式会社レコード事業部(現・EMIミュージック・ジャパン)に入社し、洋楽ディレクターとしてのキャリアをスタートさせました。

高嶋ちさ子さんが音楽の道に進んだのは、父親の影響だったのですね。

ビートルズの初代ディレクター

高嶋ちさ子さんの父親は、1964年に当時日本では無名だったビートルズの初代ディレクターを担当したビートルズの日本における仕掛人で、国内で様々な販促活動を行いました。

ビートルズの『抱きしめたい』や『涙の乗車券』など初期の楽曲の邦題のほとんどを高嶋ちさ子さんの父親が名付けたそうですよ。

ビートルズを売り出すための情報操作

まだ日本では無名だったがビートルズが売れると確信していた高嶋ちさ子さんの父親は、彼らを売り出すため、実はある“情報操作”をしていたのだとか。

部下をマッシュルームカットにさせ、早くも彼らの髪型をマネし始めた青年が現れたというウソの情報を週刊誌で記事にしてもらうという「ヤラセ」行為

・レコード鑑賞するイベントを開催し、事前にサクラとして参加させた女子高生に『シー・ラブズ・ユー』の曲中で悲鳴を上げてくれと指示。本番で実行したところ、そのうち全員が悲鳴を上げだした。

・週間ヒット速報を作り、ビートルズの売上枚数ゼロ一個足すぐらい上増しして報告。

けっこうひどいですよね…。笑 今だと大問題になりそうですが、こんなこともまかりとおる時代だったのかもしれませんね。

この結果、ビートルズは日本においても大ヒットを連発し、高嶋ちさ子さんの父親も一躍その名を知られるようになりました。

その後、高嶋ちさ子さんの父親は、邦楽担当となりザ・フォーク・クルセダーズや黛ジュン、由紀さおり、ジローズなどのディレクターを手がけています。

退職後は音楽事務所を設立

1969年に退職した高嶋ちさ子さんの父親は、1970年に株式会社キャニオン・レコード(現・ポニーキャニオン)の設立に尽力し、取締役制作部長に就任しました。

1976年には、ポリグラム・グループ(現・ユニヴァーサル)に移籍し、チャペル・インターソング社長、ロンドンレコード副社長、ポリドール・レコード(日本法人)常務を歴任した後、

1991年に高嶋音楽事務所を設立し、主にクラシック音楽のアーティストのマネジメントやプロデュース等を手がけています。

まさに輝かしい経歴ですね。

高嶋ちさ子の父親と母親の夫婦エピソード

高嶋ちさ子さんの母親は、父親が会社に勤めてから1・2年後に入社した先輩後輩の関係で1962年に結婚しています。

当時の高嶋ちさ子さんの母親は、映画女優の野添ひとみさんに似ていると言われたほどの美人で、柔らかい性格だったそうです。

野添ひとみ

高嶋ちさ子さんの父親と母親は、モノの考え方、生き方がとても合っていたのだとか。

高嶋ちさ子さんの母親は間質性肺炎を患い、2017年8月に85歳でこの世を去ってしまいました。

外でよくしゃべるけど、家だともっとしゃべるという父親は、家に帰っても話をして一緒に笑う相手がいないことが、ものすごいつらいと話しています。

とても仲の良い夫婦だったのですね。

高嶋ちさ子さんの母親は、父親に対して根に持っていることがあるそうです。

幼い頃に家族で遊びに行ったとき、先頭を歩いていた高嶋ちさ子さんの父親の前に突然野犬が現れました。

そのとき、高嶋ちさ子さんの父親は、母親の肩をバンッと叩くと真っ先に逃げ出してしまったとのだとか。

母親の肩にはアザが残り、それ以来1年に一度、30年にわたって、父親の逃亡劇の話をしているそうです。

父親は10年ぐらい経った頃から黙っていられなくなり、話をすり替えて言い訳を口にし始めたのだとか。

お茶目で楽しいお父さんですよね。

高嶋ちさ子と父親のエピソード

会社員時代の父親は、仕事に打ち込んでいて、家には寝に帰るような状態で、3時間しか寝られないこともあったようです。

平日は家族と一緒に夕食がとれないため、朝食は必ず一緒に食べるというのが高嶋家のルールだったそうですよ。

朝食時に、日々の出来事や学校の成績などいろんな話をしたといい、「勉強しなさい」という普通の親だったのだとか。

仕事が忙しい中でも少しでも子供とコミュニケーションを取ろうとする姿勢が素晴らしいですよね。まさにできる男ですね。

父親から見た高嶋ちさ子さんは、幼い頃から面白い子だったそうです。

3歳の頃、妹夫婦の別荘に遊びに行くことが決まった時、妹から「夫は髪が薄くなったのを気にしているので、ちぃちゃん、『ハゲ』って言わないでね」と電話がきたようです。

別荘の最寄りの駅に着く直前、高嶋ちさ子さんは後で言わないですむように、何十回も「ハゲ!ハゲ!」と1人で言っていたのだとか。

高嶋ちさ子さんが小学校に入ってすぐの頃は、「チビ」といじめられていたそうです。

しかし、いじめた男の子たちの中から大将を見定めて、顔面グーパンチを食らわせ、自分がガキ大将になったといい、

父親はガツンとやり返し正義感の強い高嶋ちさ子さんに、心の中で「よぅやったな!」と関心していたようです。

また、高嶋ちさ子さんの姉はダウン症を患っているのですが、高嶋ちさ子さんの両親が「隠さない」という考えだったため、高嶋ちさ子さんや兄もオープンだったそうです。

高嶋ちさ子さんは、学校でお楽しみ会があると姉を連れて行ったり、自宅に友達が遊びに来た時は友達に姉を紹介していたといい、父親はそのことにとても救われていたそうです。

高嶋ちさ子さんは、「毒舌キャラ」として有名ですが、父親は普通のこと、本当のことを言っているだけと、毒舌だとは全然思わないそうです。

高嶋ちさ子さんは好き放題しゃべっているように見えて、実は事前にネタを考え、よく母親に相談していたといい、陰ですごく努力しているのだとか。

親は絶対、子供の味方にならないといけないと考え、親が味方になれば、子供は親の信頼に応えようとすると思っているようです。

父親を通して、高嶋ちさ子さんの意外な一面を知れた気がしますね。

今回は、高嶋ちさ子さんの父親についてご紹介しました。参考になることがあれば、幸いです。

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